支援者インタビュー|二村 康太

コンサルタントデザイン

プロフィール

2002年にサイバーエージェントに入社し、自社メディア部門に勤務。メディア構築と運用に携わる。
退社後、独立しフリーランスのwebデザイナーとして従事。その経験を活かしWEBプロダクションの役員として10年間、大手から中小企業まで様々なブランディングやマーケティング業務を経験。
デザインのみならず営業・経営といった網羅的な経験をもって、2018年に経営のためのクリエイティブを生み出すデザイン経営チーム、経営のための創造社を設立。
企業のマーケティングとブランド戦略構築、そしてブランド運用のインハウス化を支援。さらには、戦略に基づいた施策設計と実行に必要なパートナーを選定しチーム編成や監督までをも行う、いわば企業のCDO代理を行なっている。


自分を最大限に発揮できるポジショニング探し、三つ子の魂百まで。

ーーご出身はどちらですか?

愛知県名古屋市出身です。生まれてから18歳まで、ずっと同じ家でずっと同じ地元。

ーー愛知での学生時代を教えてください。

小学校の時から公文をやってたんだけど、勉強嫌いだったからめんどくさいなと思いながら「これ何の意味があるの?」とか結構聞いてた。
国語でさ、この作者はどう思ってますか?みたいなの聞いてくるけど、この人作者じゃないじゃんって思う(笑)

そういう決まりきったことやってて、何が得られるんだろうっていうのはずっと思ってたのよ。
なんで礼儀正しい=スーツなのかとかもね。

ーー決まりきったことに対して疑問があったんですね。

野球をやるのも見るのも好きな小学生だったんだけど、中学校に入って野球やってる人が多くて、自分のレベルだったら別に何もならないなと思ったんで、スタートラインが同じスポーツをしようと剣道を選んだ。

全員初心者で始まった部活で、3年生の時に名古屋市で優勝するぐらいまでになった。
熱血顧問だったおかげもあってスポーツがそれなりにできたから、推薦を受けられる対象だった。通知表もほとんど5だったね。

ずっと同じ家と地元だから遠くに行きたくて、高校は片道1時間以上かかる学校を選んだ。

ーー1時間って結構ですね…!

学生の頃って電車乗りたいみたいな願望あるじゃん(笑) やっぱり都会への憧れみたいなのが昔からあるのかな…。

大阪で例えるのが難しいんだけど、家が十三だとして、そこから梅田を通って難波を通って、ちょっとだけハイソなところの学校に行くみたいな感じなの。だから定期がさ、全部都会を通っていくじゃん。通学路が遊び場ルートになるから、帰りに遊べるなと、そういう計算もあったね。

俺はスーパー定期って呼んでたんだけど(笑)

ーースーパー定期、たしかに(笑)

本当はもっとチャラチャラしたかったけど悪いこともできず、
それでもちょっと目立ちたいんで ”悪そうなやつと関わらなさそうなお洒落の路線とは何か” を結構考えたりしてた。

その時はそんなこと思ってなかったけど、割とポジショニングを考えるタイプなんだよ。さっきの剣道始めたきっかけの話とかもそうじゃん。

「自分の立ち位置を考えて、狭い世界でいいポジションを取る」っていう感じのことを結構考えてたんで、今に繋がってるよね。

ーーめっちゃ繋がってますね。

そうでしょ。三つ子の魂百までっていうのを提唱してるから(笑)基本的に当時も今も大きくは変わらない。

高校選択も自分の中学からは誰も行ってない所っていう選び方したし、高校から大学に行く時も同じ。
1人になりたいっていうか、人真似が好きじゃないね。

ーー大学生以降はいかがでしたか?

大学に入学してからは、群れることが嫌でサークルとかには入りたくなかった。かといって別にやりたいこともなくて。
何もしない方がクールみたいな感覚があったね、良くないけど。

何もしないし働かないからお金なくて、1日1000円以下で抑えるのが目標だった。学食が一番安いからそこで夕食済ませちゃうとかね。

ーー1000円以上使っちゃえ!ってなる日はなかったんですか?

なかったねー。働くよりは節約する方がマシっていう風に思ってたし、とにかく怠け者だった。

深夜のコンビニとかダイニングバーとか洋服屋さんとかのバイトを経験する内に、就職活動の時期がやってくるんだけど、何もしてないから自己 PR で書くことがないのよ。

大学生の頃の周りって、チャラチャラした当時で言うギャル男路線と、洋服が好きなアバンギャルド路線の人と2つに分かれてて。
俺は個人的にはマニアックな方の路線の属性なんだけど、キャラが根っからの陽キャなんで、どっちかっていうとチャラチャラした遊びの方を好むのよ。趣味と属性が合ってなくてね。

ギャル男の方に紛れたいけど同じような服装はしたくない。でも変な格好してると入れてもらえないじゃん。中間地点って何だろうっていうのを研究して、ストリート系みたいな路線になっていったの。

そういう、コミュニティを行ったり来たりできることをすごい意識してたから、「洋服という鎧を脱いだらすごく溶け込めるぐらい私は柔軟性があります!」みたいな PR に終着してた。友達にはめっちゃくちゃ笑われたんだけど(笑)

ーー充分素敵な PR です!

いいよね。今思っても良いなと思うんだけど、当時はまだ時代が追いついてなかったのかも(笑)

テレビ局とか面接受けてたんだけど、能力を身につけていつでも入れる状態にしといたらいいんじゃないの?と新卒にこだわらなくなって、一旦就職活動をやめて名古屋に帰った。

その頃から、雑誌はデザインを見てるだけで満足しちゃってあんまり内容見ないようなタイプで、デザインに興味があったのね。それでふと、デザインやりたいなと思ったのよ。

デザイナーになるのかラッパーになるのか、どっちにしようかなと思ったんだけど。

ーーラッパーの道もあったんですね!

ただ単に音楽が好きだったね。それでタワーレコードの面接受けて、フルタイムで毎日毎日バイトしてお金を貯めて。それで大学を卒業してデジハリ(デジタルハリウッド)に通った。

ーーその後デザインの道へ?

その前に、ストリート雑誌に載ってた「 WEB 雑誌を立ち上げる」っていう求人に応募したんだよね。
フリーランス契約だったから原稿書かないとお給料が発生しなくて、アシスタント業務で無給で8ヶ月働いてた。その時は親のサポートもちょこっとだけあって、足りない分は消費者金融に借りたり。

それを続けるって道もあったけど、せっかくデザインの勉強してるからやっぱデザインやった方がいいなと、好きなことやった方がいいなと思ってね。

ーーやっぱり、デザインがお好きだったんですね。

その時勉強してたのは Mac の基礎講座 みたいなやつだったんだけど、 HTML とか WEB にまつわるものもあったのね。WEB でアニメーション作るんだったら Flash 1 を使わないと作れないし、元々動画を勉強したいと思ってたから、じゃあ アニメーションを Flash で作って遊ぼうみたいなことを思って勉強し始めてて。

卒業制作の部門としてCG クリエイター・映像・グラフィック・WEB・オーサリング部門があって、オーサリングは CD – ROM とかを作るやつ。ソフトを作るのに必要なプログラミング言語に Flash が代用できるっていうことを知った。

オーサリング部門は敵がほとんどいなかったんで、じゃあ Flash で作ったものをオーサリング部門として出そうと思い立った。そしたらそこで優秀作品に選ばれたんだよ。

結局そういう抜け道を探してるタイプだね。

  1. Flash:Adobe Systemsが提供する、動画やゲームなどのWebコンテンツを作成、または再生するためのソフトの総称。動的な表現を組み込んだWebページなどで広く利用されていた。 ↩︎

デザイナーとしての研鑽と、やらなきゃいけない時期を経て、想いはクリエイティブ執行役へ。

ーー抜け道を見つけることも、実績をあげられることもすごいです!

そうこうしてる内に、知り合いの人からサイバーエージェントに誘われて、面接当日に入社が決まった。

それまでデザイナーを志してるもんだから、レベルの高いデザインの師匠っていうか先輩とかに教えて欲しいって欲もあるし、自分も腕磨きたいと思ってるじゃん。

でも当時やってた事って当時の自分にとってはめちゃくちゃやりたくないことだったのね。目立つようにとりあえずでっかくするみたいなこととか、チラシ広告ばっかりとか。
かなり今に活きてるし経験になってんだけど。

あまり納得しないながらも3年はいないと身につかないなと思ったんで、面白くなる方法を模索して頑張ってた。

ーーデザイナーとして、向上心が育っていってますね。

その頃23.4歳なんだけど、友達の結婚式で初めてハワイに行ったのがきっかけで海外にめちゃくちゃハマって(笑)

友達が留学してたロンドンとか、別の友達が料理の修行してたイタリアとか、個人的に好きだった北欧とか巡って留学も考えてたんだけど、その時期に色んなことが重なってパニック障害になっちゃって。それで働けなくなって実家に帰った。人生で一番きつい時期だったね。

ーーそんなこともあったんですか…

それから半年くらい経って、名古屋のデザイン会社に業務委託で関わらせてもらうようになって、そこでようやく自分のデザイン能力を客観的に見てもらい、けちょんけちょんに言われた。

我が身を振り返ってゼロからやり直そうって思って、ちゃんとデザインの本とか買ってしっかりセオリーとか身に付けて。段々とそこの会社でも先輩からも認めてもらえるようになったかな。

ーーデザイナーとして客観的にも認められるようになったと。

その頃28歳なんだけど、またバイタリティが出てきてもう一回東京に行った。
で、サイバーエージェントの同僚だった人が誘ってくれて、制作会社を始めたね。

その頃はね、本当はこうしたいと思っても変に大人になって我慢してた感じがあってさ。管理職だからいつまでも現場をやってるわけにはいかないんじゃないかとか、そういう気持ち。
最高責任者は自分じゃないし、思っても勝手に行動に移せない環境だったから、人生でその期間が唯一「やりたい」より「やらなきゃいけない」を頑張ってた時期かも。

最終的に10年経ったタイミングで、自分がやりたいことを話して理解してもらって辞めたね。

ーーそれで「経営のための創造社」を立ち上げられるんですね。

そうだね。今では失敗するも成功するも自分次第だし、
「こういう世界観だったら面白いだろうな」とか「このポジション空いてそうだからズラして狙おう」とかを全開で考えられるようになったから、勝負になってるなっていう感覚が持てた。

ーーやりたいことを全開に表現されているんですね。

とか言ってるけど、それをやってても結局儲かんなくて死ぬみたいなこととかもあるかもしれないよね。
ただの持論だけで結果が出てこなかったら戯言になっちゃうから、結構それとの戦いをしてるみたいな感じ。

ーーなるほど。あくまでも、やりたいことで成果を出すのが大切だと。

デザイナーもそうだけど、支援する側って無責任になろうと思えばいくらでもなれるんだよ。
実行するのは事業者だから「このプランを実行できない事業者の責任」って投げやりに言えてしまう。
他にも、店舗をプロデュースするようなプロジェクトがあったとして、出来上がったものは良いけど人の動線が悪い。でも支援者としては役割を終えてるからサポートしてくれないとかね。

でもそれってお金を頂く意味がないと思うんだよね。
しっかり事業者や企業自体を見て、伴走して、最終的に会社として成果を上げてこそ、お金を頂く意味が生まれると思う。

ーー確かに、一見当たり前のように捉えている ”対価” の重要性が伝わってきます。

身銭を切って支援し続けるのは難しいから、お金をいただかないといけない。でも事業者にとっては高くて払えない感覚になることもある。

でもそれは初期コストに対する『覚悟』の問題だと思ってて。
初期コストが割高でも、その分稼がせてくれるような支援者が付くなら、使った分取り戻せるじゃん、と俺は思うんだけど。

相手を信頼できないがゆえに、それぞれの状況とかで冷静に価値をジャッジできないゆえに、事業者側では「支援者のあの提案は悪かった」とか、支援者側では「事業者がやってくれなかったから儲からなかった」みたいになることが多いんだろうなって思う。

事業者側に、支援者をジャッジする能力があれば良いんじゃないかなって話。

ーーなるほど。価値を判断できれば覚悟も生まれるのではないかと。

事業者が支援者を自分の目で見て「それなりの人物で質もある」と判断して、さらにその支援者をコントロールできれば、むしろ自分でやってるよりちゃんと稼げる状態になるな。とまで事業者に思ってもらえたら対価が貰えるんじゃないかなと思ってる。

だからこそ、経営のための創造社は『クリエイティブの執行役』として企業の中に入って、客観的に判断する役割を代わりにやりましょうかっていうスタイル。

ーーどういう方とお仕事がしたいとかありますか?

本当は客観的に判断できるスキルを事業者に身につけて欲しいんだけどね。判断しなきゃいけないってマインドを持ってる事業者は多くないから、そういう方と仕事したいってのはある。けど、予算が決まっていたりして今はこれしか出せないみたいな事情があるのもよく分かる。
マッチングの問題になるのかもしれないけど『信用してもらって進める』っていうのが仕事の醍醐味だね。